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みんぺのにっき。

何かが変わっていったらいいなと願いながら、感じたままにいろいろ書きます。生きたいように生きたいね。好きなことを、好きなように好きなだけ。

打ちひしがれて苦しんでも諦められない、その理由は

このあいだ、そのモチベーションはどこから来るの、と聞かれた。

 

「夢」へのモチベーション。

 

わたしの「夢」、

どんな形でもパルクールで食べていけるようになること。

 

 

最初はただ単にやりたかった。

そうなったら、めっちゃ楽しいだろうなってすごいわくわくした。

その時は、なにかにわくわくしたり、やりたい!って心が動くことがとても久しかったような気がする。

だから、これだ、って思った。

思えたし、思ってしまったのかもしれない。

 

今はどうだろう。

 

この先のことあんまり迷ったりはしない。

ほかの道にいこうとも全然思っていない。

 

けど、何度も何度も消沈してしまいそうになるのも確かではある。

 

自分では無理なんじゃないか、という不安が今までだって何度も首をもたげてきた。

 

本当に卓球しかできないと、思うことがよくある。

 

そのたびに台を走る球の音や、ラケットの重みが懐かしく感じる。帰りたいと思うこともある。

 

ただ、その卓球だって初めからできてたわけではない。

 

2時間かかってやってファオ打ちが続くような時代があったわけだし、そこから練習量が勝手に増えたから勝手にうまくなっていったんだし。

 

ということは、パルクールだって素振りや壁打ちと同じように、毎日何時間と練習していた高校の時と同じように細かいことを意識して何百何千回と練習したら、いつかはできるようになるんじゃないかと、もたげた不安を押し返している。

 

それが、割と日常だったりする。

 

こんな、人からしたらバカげた葛藤の中でも、苦しいことには苦しいのだけれど、パルクールを捨てきれないのはなんでだろうか。

たぶん普通の就活の方がいくぶん楽ではあるのだと思う。(いや、大変は大変だろうけどね)

 

 

結局のところ、わたしは、わたしに嘘をつきたくないのだと思う。

 

パルクールで生きていきたいと思ったわたし」をなかったことにしたくないのだろう。

 

 

じゃあ、そもそもなんでパルクールで生きたいと思ったのかというと、普通が嫌だったんだと思う。

就職して、会社の中で自分の存在意義とはについてぐるぐると考えながら生きるのが嫌だったんだろう。

 

アメフト部でトレーナーをやっていたころ、自分の仕事の意味もわかっていたしわたしが頑張らなきゃとも思っていた。

それでも辞めてしまったのは、そういう「役割」をこなすことのできる人がいれば「わたし」の必要性は特にないと仕事の意味以上に感じていたからだ。

わたしじゃなくてもいいことをわたしは頑張りたくなくなった。

あの場所で、わたしは「わたし」の存在意義を見つけられなかった。

わたしのせいかもしれないし、まわりの人のせいかもしれない。ただのタイミングかもしれなかったけれど、たしかにわたしは「居なくてもよい存在」であった。

 

 

 

わたしはわたしの生に、命に理由がほしい。

わたしの人生は意味のあるものだったと思って死にたい。

 

「主人公」でいたいんだ。

「「ヒーロー」になりたいんだ。

 

 

そうすればわたしはきっと愛される。

 

 

そういう、そういうことなんだろう。

 

 

だから、まだまだ発展途上なパルクールが舞台なのだろう。

 

たくさんやっていけることが転がっているから。

 

 

このモチベーションは、わたしがわたしの生きる意味を求めるそのものだから、たぶんなくなることはない。

これを辞めてしまったら、わたしはわたしの人生の意味を命の理由をあきらめたことになってしまう。

わたしでわたしの生を否定してしまうことと等しいと感じているんだろう。

 

今までと同じように打ちのめされたり、傷ついたりすることはあるのだろうけど、だから、わたしはあきらめられないのでしょう。

 

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なんだかセンチメンタルにたどり着くなぁ…。