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みんぺのにっき。

何かが変わっていったらいいなと願いながら、感じたままにいろいろ書きます。生きたいように生きたいね。好きなことを、好きなように好きなだけ。

正しいとはなんなのか

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さつきとメイの家。おすすめ。

 

8記事目。

正しさについて考えてみよう。

中学のあたりから大人からみて正しいと思われるようにずっと生きてきたわたしですが、大学に入ってからはほとほと困った。なにが正しいのかわからない。

大学の特徴というのは、自分から動かなくてはならないところだと思っている。

授業ひとつとってみてもそう。

サークルや部活選びもそう。

自分で動かなければ情報なんてそんなに多くは得られないし。

そんな中で困ったのはどの選択が正しいのかわからないこと。

正しいを判別してくれる大人がいなくなるのも大学のタイミングだと思う。

ほんとうに急に放り出されるからすごい困る、ほんとうに戸惑う。

部活時代もどの選択が正しいのかわからなくて、いちいち実施に移るまでが遅かった。

 

中学生は地域性もあり、かなり特殊?厳しい?管理教育(らしいです。教職の授業とってて初めて知った)のもとで育てられたこともあり、校則を厳しく守ること、先生の言うことには真面目に従うことが常でした。

それが正しいことと疑わなかったし、むしろなんで反抗するのかも理解できなかった。

それが当たり前。

高校でも勉強と部活を両方やる。それが普通の世界で生きてた。

その勉強だって、問題があってそれを形式的に解くような勉強ばかりで、正解が決まってる。

正しいことは常に決まってる。

そんな世界で生きてきた。

 

それがぽーんっと正解のない世界に放り込まれたからかなり戸惑った。いまでも慣れないことがあったりなかったり。

 

いちばん苦しかったのは部活を辞める時。

辞めない方がいい理由ももちろんあったし、部員は好きだった。

その一方で、パルクールをやりたい気持ちも大きかった。

どうしたらいいのかわからなくて、あの頃は本当に毎日苦しくて、バイトが終わったら身体の疲れとともに泣けてきちゃうような。

誰か正解を教えてよ!!!!!って毎日のように思っていた。

 

自分で責任持つしかないことがわかってからは自分の気持ちに従うようにはなったけど。

 

あと就活もそうかも。

いまは必要じゃない就活をしない(それがなんなのかは具体的じゃないけど)と決めているけど、そう決める前はやらないことは正しくないと思ってたから、正しくない(と決めつけた)自分を責めていてしんどかった。

 

それでも、いまでもこれが正しいよと言われたら本当に疑うことなくそれに従うとは思う。それはたぶん楽だからだと思う。考えなくていいから。

こんな育ち方をしたのは、管理教育の悪いところかなぁと思う。いや、その教育下でもちゃんと考えて育つ子は育つからそうとも言えないけど、それを含めて考える力が育つ教育ってなんなのか考えたりもしている。

 

パルクールについてもその正しさを迷うこともある。

パルクールはとても自由なスポーツで、その捉え方もプレースタイルは様々あって、だからこそいいんだけど、共通の正しさがわからなくってどうしていいのかわからないことがある。

いちばんはどこまでが他の人の迷惑になるのか、とかわからなくてなにも言えないことが多い。

これでも良識はある方だと思ってるし思いたいけど、それを押し付けるのはなんか違うし、じゃあどうやってわかりあえばいいのか、というところも。

それについては、実力をつけるのがいちばんなんじゃないかと思う。

わたしの中ではパルクールはスポーツという捉え方が強いところがある。

高校時代は半分アスリートみたいなもんだったから、パルクールもそういう風に考えてしまう。

スポーツをはじめとする勝負の世界では、勝ったやつが強いし、負けた奴がなに言ったってそれは言い訳でしかない。

そんな世界に6年いた。(卓球歴自体は9年だけど)

だから、上手い人がそれを導いていくべきだと思う。

上手い人にはそれなりに責任があるんじゃないかと思っている。

世界どこに行っても、じゃない。

日本だから、まだまだパルクール発展途上だからこそ上手い人には責任がある、と思っていて、自分はその階層で行ったら全然下っ端だからあんまりなにも言えないんだけど。

この文脈でいうと、言葉の力が弱いからね。

だから、うまくなりたいと思う。

自分の言葉がちゃんと力を持てるように。

言葉が打ちのめされないように。

そんで誰の言葉でも拾えるような環境を作れたらいいよね。

 

とりあえず今日は男の人はズボン履き替えるときに外で着替えないでくれとだけは言いたい。

 

 

 

正しさをつくるのは何かって言ったら、それは大衆だと思う。

どれだけ多くの人がそれを正しいと思っているか。正しいと認識していなくても、普通だと思っていたり、なにも思わないくらい浸透していたり。

それは同時にいまある正しさがほんとうに正しいのかという疑いを持つことでもある。

正しさなんて簡単にひっくり返る。

だって戦争時代はお国のために命を含む個人の犠牲を厭わない、が正しかったんでしょ?

いまでは戦争しない国であることが正しいじゃん。

わたしも戦争なんてしなくていいし、したくないからしないでね、安倍さんトランプさん。これは本気でお願いしたい。

なにがあっても戦争だけはしないでくれ。

 

戦争と同じように(同じって言っていいのか?)時代が変われば、立場が変われば正しさなんてものは変化していくそのへんの流行と変わらない。

いまある正しさはほんとうに正しいのかって考える力が身についていってほしいし、それを担っていくのが教育なんだろうと思う。

教師ってつくづく尊い仕事だ。

親がやってるから完全に身内目線だけど、でも、先生を目指していなくても先生と呼ばれる立場になる人はなにを教えなくちゃいけないのかちゃんとわかってなってほしい。

教師の質が低下してるのはれっきとした事実であるっていうのはニュースとか両親の話を聞いていて本当に感じる。

 

わたしもわたし自身の正しさが正しさと呼べるのかきちんと考えていかなくてはね。